合理性を貫くと...
合理的思考だけでは不十分だということを自分なりに整理するつもりで、何度か書いてきたが、偶然にある本の中で「合理主義を貫くと独善的で、一方的になりがちである」という指摘が目に飛び込んできた。
なるほど、その通りという傾向がある人を何度も見てきた。
権威主義で、自分の意見を一方的に主張するために、とは言い過ぎだが、冷静なのは準備段階までだ。やり取りが始まると、自分の意見に固執し、双方が納得できる所を見つけ出そうとはしない。合理的思考は、相手を打ちのめす方向に走るための基盤であり、武器となる。こうなると合理性は、どこかに消えてしまっているが、正義は自分にありと信じているので、少しも自分の足元を見ようとはしない。
そこまで考えた時、ドキリとした。それは、合理的思考の研修講師を務めることで、自分はそのような人に、あなたは合理的に考えているというお墨付きを与え、さらには、もっと合理的になれるからと励ましていたのではないかということだ。
合理的思考の研修だから、合理的な考え、合理性指向を重視してきたが、結果として、駅でつぶやくことになる人を作り出すことに加担したのではないだろうか。
合理的思考をすることには、留意点がある。これまで、私は、そのように言ってはいなかった。
いったいどうしてだろうか。思慮不足と言ってしまえばおしまいなので、このことをもう少し考えてみた。
合理性の対局にあるのは、非合理性だけで、それはすべて良くないものだと言い切ってしまったことが、大きな原因ではないだろうか。ここで、非合理とは、話しの道筋が通らず、結論が飛んでしまって納得できない、明らかに間違った方向に進んでしまう、などというのが主な意味である。
しかし、実は、合理性の対局には、もうひとつ別の、いわゆる合理性とは違う、有益な考え方があるのではないだろうか。
それは、曖昧な“悟りの言葉”のような究極の一言である。このような言葉は、表面的に聞いた限りでは何のことかわからない。あるいは、あまりに一般的で、具体的に自分のケースに当てはめようとすると、かえって使いにくくなってしまう。たとえば、「浮利は追わず」という家訓や「利益は後からついてくる」という教訓は、確かに示唆に富んでいて、考えさせられることがたくさんあるが、この家訓を大切にしていた所では、現実には違う事が起こったし、どこまでを浮利とするのか、その基準が定かではない。
このような教訓を合理的に説明しようとする試みもある。合理性には二つの側面があり...等といった話しになると、説明をしようとすればするほど、わかりにくさが残るか、ひとりよがりになってしまい、合理性に迫るどころか遠ざかってしまうような気がしてならない。
ところが、このような教訓をうまく生かして、思考の指針とできる人たちもいる。どうしてだろうか。
それは、家訓にあるような文化の中で育ち、その文化が自分のものになっている人たちだ。そもそも家訓には、どこまでを浮利とするかといった、数値ではかれる基準などあってはいけないのだ。変化が続く中でもとりわけ大きく波がうねるような中でこそ、思考判断に迷うから、家訓が生きることになる。過去の傾向線がたどれ、将来のトレンド予測がさほど難しくない状況では、間違うこともない。
長い間、文化として受け継がれ、自分にしみ通った家訓を頼りにした判断は、合理的に思考をするのとは違うプロセスから生まれたものだが、有効である。
私が、合理的思考のトレーニングの中で伝えなければならなかったのは、この事ではなかったのだろう。
教訓にはいろいろな種類があるし、自分にぴったり来ることもあればそうでないこともある。年齢や経験によっても変化するかもしれない。それだけ含蓄があるということだが、価値を考えることは、合理的でないもうひとつのものに目を向けさせてくれ、目を開かせてくれるのではないだろうか。合理性に加えて、と考えるとき、価値はよい手がかりになりそうだ。