カテゴリー「思考の合理性」の記事

他力の効用

自力と他力は、仏教から来た言葉だと思う。わかりやすいので、自力の重要性を強調する時によく使われる。思考をして問題解決をしていこうとするのだから自力に決まっていて、他力は関係ないと思われるかもしれないが、他力もある。最近それに気がつかされた。

他力という言葉には、自主性、自分の力で行う事を放棄し、他人任せという感じがあるか。

けれども、他力とは、ただ人に頼るというのではない。

他力とは、他者(この場合は、自分より力がある思考能力、経験の上位者)からの働きかけという意味だ。働きかけに感謝し、受け入れ、手助けを得るという事になると、目的合理性からするととてもありがたい事になる。

自分も賢明に行うが、非力な自分はついエゴが働き出しているのに気がつかないままにいることもある。そんなとき、他力のままにする事をするという感覚は、とても大切だろう。

正確には違うのだが、リーダーに必要なサーバント感覚は、これだという気がする。リーダーに従うメンバーに他力を教えるのではなく、リーダー自身が、ひとつ上位の存在を置きメンバーのサーバントであり、リーダーであるというものだ。最近のマネジメント研究の動向を知らない人にはわかりにくい話になっているだろうが、他力という日本的な概念は、とても良いヒントを与えてくれるのではないだろうか。

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状況把握と合理性

自分の置かれている状況がわかっていなければ、適切な課題設定などできないのは当然のことである。状況把握は、合理的に行わなくてはならない。
しかし、実際には、合理性を超えた決定が行われることがある。

若手の頃、ある量販店の売り上げ予測を頼まれたことがある。その新興住宅地で早い時期から出店し成功していたのだが、隣りにこの地域のディベロッパー系の大型店が出店することになった。地域の人たちには迷惑な話だが、この大型店と私が担当していた量販店の人の流れを断ち切るような設計になっていた。その規模からこの店の行き先に対して悲観的な見方がされていたが、ごく少数、長年の勘からこの店は大丈夫と太鼓判を押す人が一人いた。

私たちは、冷静な分析から、悲観的な見方をせざるを得なかった。そして、早期に業態転換をすべきとのレポートを出した。大型店開店日には店は閑散とし、利益も大きく減るだろうと思われたが、実際は違った。この店は大丈夫と太鼓判を押した人の勝ちだった。

この人は何を見たのだろうか。

その後、この人と親しくさせていただきたくさんの事を学ばせていただいたのだが、この人はこう言っていた。
「状況は厳しいのは、あなた方のレポートからよくわかった。私も同意する。けれども、私はあの店はよく知っている。よいスタッフがいて、団結心がある。だから大丈夫だと感じたんだ。」
この人は、大型店開店数ヶ月前から、支援スタッフとして店に入り、さまざまな働きかけをしていた。

私が失敗したのは、形勢を読み切れなかったからだった。

Best and Brightestよろしく、私たちがエリアマーケティングの統計データを分析していた頃、この人は、店のスタッフを盛り上げ、優れた兵隊を作り上げ、種々の戦術を用意していたのだ。

形勢の“計”は、統計数字のことで、“勢”、勢いは、人が発想し、働きかけを行い、自己に有利な状況を作り出す事だ。

“勢”は、“計”を助け、補ってくれる。しかし、“計”の有利さに頼ってばかりいて、“勢”を作り出せないと、“計”のすべてが動き出さず、つまりどこかが動かず、負けてしまうことがある。

合理性というと数字にばかり注目してしまうのだが、熱い“勢い”もクールに見られなくてはいけない。

大型店開店日、小さな規模になってしまった量販店の来店者数がそれまでの最大数を記録し、レジの行列がとんでもない長さになって、その対応に追われる様子は、私の大きな教訓になっている。

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感情と論理

最近はあまり見られなくなったように思うが、昔は、日本人と欧米人の意思決定の違いというと、感情と論理の影響について言及さる事が多かった。すなわち、欧米人は感情の影響を受けずに論理的に決めるが、日本人は論理という理屈ではなく感情に影響されるというのだ。だから、人間的に冷たい欧米人対人間的な日本人という言い方もされた。私も、以前は、こんな整理の仕方を参考に見せる事もあった。

日米の意思決定の違い

だが、欧米人にも感情はあり、決定が感情に影響されないわけではない。また、日本人も欧米的な論理的思考をするようになり、気持ちだけで物事を押し切るような事はしなくなったし、グローバルスタンダードという欧米思考の浸透と共に、気持ちだけでの意思決定などしようと思っても出来なくなってきている。

何に基づいて論理展開をするか、価値がベースにあるのだから、ある絶対的な価値基準を基にすれば、あまりに感情的な決定も決して論理を忘れた感情だけの決定とは言えなくなる。

感情に訴える人の困った点は、感情のベースになっている価値観が自分だけのものではないと信じ込んでしまう事である。「わかるだろ...」「こんなのは当たり前の事じゃないか!」そういわれて、同意を強制されても困るだけである。つまり、考える事を放棄して、自分の方に来る事を強制しているのだ。

考えるのは、相手をわかるためである。論理で考えれば、論理は普遍的なものなのだから、上下関係や過去の貸し借りなどという余分なものなしに、お互いにより納得感が得られる結論に到達しやすいのだ。

感情の軸を大切にするから人間的で、論理だけで決めるのは人間的でないという話しに持っていくことはできない。フェアな関係で相手を尊重するには、論理的である事も重要な事である。

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目的と目標と手段と価値

目標と手段は違う。これは、思考力を鍛える上での基本である。目的と目標も同様に違う。これは、未だによく間違えられるので、セミナーの中でも参加者に確認し、わからない人がいると整理を手伝う。目的、目標、手段と階層構造で考えられるようになれば、大いに示唆を得られる。

価値は、どれにも関係するが、価値がもっとも刺激を与えてくれるのは、目的を考えるときだ。

目的、目標、手段の関係の説明はすばやく終わらせ、価値を考えてもらおうと思うのだが、年配者でも整理に手間取る。この概念は、日本ではQCでも語られてきた。QCで鍛えられた人は、スッと入っていける。その関係で年配の人は親しんでいたのだろう。

しかしQC自体が繁栄期を終えるに従って、目的、目標、手段の整理が当たり前にできた人たちが少なくなってしまったようだ、これは、“価値の時代”にとても困る傾向だ。QCについては、批判的に語られる事が多い。しかし、計算の力が弱くなってきたと言われるが、日本人はQCでずいぶん思考の基礎体力を付けたのではないだろうか。

価値が重要になっているが、その一方で基礎体力が落ちている。考えるのではなく、気持ち、好き嫌いで価値を考える事ほど危険な事はない。改めて、メルマガで取り上げなくてはいけないテーマだろう。

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“情”と“理”

合理的に考えると結論はこうなるが、しかし...割り切って考えられない場合がある。気持ち、情が働くからだ。

ある人を助けるために他の人を犠牲にするかという選択決定問題として有名な問題に「トロッコ問題」や「カルネアデスの舟板」がある。それぞれ法理論、倫理学で有名だが、脳科学からの興味深いアプローチもある。

「トロッコ問題」のように選択肢を限定して決定を強制的に選ばせるのは、真の問題解決的アプローチではないが、ギリギリの状況に直面したときに、問われるのが、“価値”だ。割り切った計算をするとこちらの選択肢だが...瞬間に“理”の結論は頭に浮かぶのだが、“情”が働き、最終的に選び取る行動は“価値”に基づくものだ。そんなギリギリの状況で考えなくても済む世界がこれまで続いていたのかもしれない。しかし、多少の事には目を当てずとか、そんな事まで考えなくてもといった事が通らなくなってしまったようだ。世の中が大きく変化し、ちょっとした事が組織全体に影響を与えるようになってきて、一人一人が自分の価値観を問われるようになってきたようだ。

トロッコ問題
走っているトロッコの制御が利かなくなった。 このままでは線路の先にいる5人がトロッコに轢かれてしまう。線路の切り替えレバーを引くとトロッコを別路線に移動させる事ができるが、そうすると別路線にいる別の1人が轢き殺されてしまう。さて、トロッコを別路線に移動させるべきだろうか?
線路の先には5人がいて、目の前の人を線路に突き倒してトロッコを止めるべきかという問題もある。

カルネアデスの舟板
難破船から海に投げ出された男が一片の板切れにつかまっている。そこに、同じ板につかまろうとする者が出現した。けれども、二人が板につかまると板が沈んでしまうので、板につかまっていた男は、後から来てつかまろうとする者を突き飛ばし、海におぼれさせた。これは許される行為だろうか。

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事実という証明

合理的な思考をしているかどうかの証明に使われるのが“事実”だ。確かに推定でも意見でもない厳然たる事実は、どうしようもなく絶対的なものとして存在する。

しかし、その一方で、私たちは、とてもおもしろい事を経験している。それは、いったん気にし始めると、気にしている事ばかりが目に飛び込んでくる事だ。

流行に敏感な方だと自負している人が、友人たちとのおしゃべりの会に出かけたところ、あるユニークなブランド品の事を自分一人が知らずにい、ビックリした。じっくりと見せてもらったところ、なるほど、とてもいい。

するとどうだろう、帰り道、そのブランドがやたら目に入り始める。こんなにはやっていたんだ...そう思うとしたら注意が必要だ。

探し出すものがすでに頭にあるので、目は探しているものを見るのだ。

前の例で言えば、おしゃべりの会に行く前には流行はしていなかったが、会が終わる時間には流行していたなどという事があるはずはない。目に飛び込んで着たのは、自分が気にしていたからである。

目にしたのは“事実”だが、これを根拠に思考を進めては危険だ。自分勝手に思考を進める根拠にしてしまう事実ほど怖いものはない。

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合理性を貫くと...

合理性を貫くと...

合理的思考だけでは不十分だということを自分なりに整理するつもりで、何度か書いてきたが、偶然にある本の中で「合理主義を貫くと独善的で、一方的になりがちである」という指摘が目に飛び込んできた。

なるほど、その通りという傾向がある人を何度も見てきた。

権威主義で、自分の意見を一方的に主張するために、とは言い過ぎだが、冷静なのは準備段階までだ。やり取りが始まると、自分の意見に固執し、双方が納得できる所を見つけ出そうとはしない。合理的思考は、相手を打ちのめす方向に走るための基盤であり、武器となる。こうなると合理性は、どこかに消えてしまっているが、正義は自分にありと信じているので、少しも自分の足元を見ようとはしない。

そこまで考えた時、ドキリとした。それは、合理的思考の研修講師を務めることで、自分はそのような人に、あなたは合理的に考えているというお墨付きを与え、さらには、もっと合理的になれるからと励ましていたのではないかということだ。

合理的思考の研修だから、合理的な考え、合理性指向を重視してきたが、結果として、駅でつぶやくことになる人を作り出すことに加担したのではないだろうか。

合理的思考をすることには、留意点がある。これまで、私は、そのように言ってはいなかった。

いったいどうしてだろうか。思慮不足と言ってしまえばおしまいなので、このことをもう少し考えてみた。

合理性の対局にあるのは、非合理性だけで、それはすべて良くないものだと言い切ってしまったことが、大きな原因ではないだろうか。ここで、非合理とは、話しの道筋が通らず、結論が飛んでしまって納得できない、明らかに間違った方向に進んでしまう、などというのが主な意味である。

しかし、実は、合理性の対局には、もうひとつ別の、いわゆる合理性とは違う、有益な考え方があるのではないだろうか。

それは、曖昧な“悟りの言葉”のような究極の一言である。このような言葉は、表面的に聞いた限りでは何のことかわからない。あるいは、あまりに一般的で、具体的に自分のケースに当てはめようとすると、かえって使いにくくなってしまう。たとえば、「浮利は追わず」という家訓や「利益は後からついてくる」という教訓は、確かに示唆に富んでいて、考えさせられることがたくさんあるが、この家訓を大切にしていた所では、現実には違う事が起こったし、どこまでを浮利とするのか、その基準が定かではない。

このような教訓を合理的に説明しようとする試みもある。合理性には二つの側面があり...等といった話しになると、説明をしようとすればするほど、わかりにくさが残るか、ひとりよがりになってしまい、合理性に迫るどころか遠ざかってしまうような気がしてならない。

ところが、このような教訓をうまく生かして、思考の指針とできる人たちもいる。どうしてだろうか。

それは、家訓にあるような文化の中で育ち、その文化が自分のものになっている人たちだ。そもそも家訓には、どこまでを浮利とするかといった、数値ではかれる基準などあってはいけないのだ。変化が続く中でもとりわけ大きく波がうねるような中でこそ、思考判断に迷うから、家訓が生きることになる。過去の傾向線がたどれ、将来のトレンド予測がさほど難しくない状況では、間違うこともない。

長い間、文化として受け継がれ、自分にしみ通った家訓を頼りにした判断は、合理的に思考をするのとは違うプロセスから生まれたものだが、有効である。

私が、合理的思考のトレーニングの中で伝えなければならなかったのは、この事ではなかったのだろう。

教訓にはいろいろな種類があるし、自分にぴったり来ることもあればそうでないこともある。年齢や経験によっても変化するかもしれない。それだけ含蓄があるということだが、価値を考えることは、合理的でないもうひとつのものに目を向けさせてくれ、目を開かせてくれるのではないだろうか。合理性に加えて、と考えるとき、価値はよい手がかりになりそうだ。

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合理的な人のネガティブな特性

日曜日に、合理的思考法の社内講師の方とお話をする機会があった。N先生とO先生との出会いがおもしろかったので、そのお話しをしたら、宗教の世界の人と合理的思考の話しをしてもしょうがないでしょうと言われてしまった。確かに、霊性や復活など、科学的合理性を超えた世界を信じるところから始まる宗教の世界を科学的合理性で見れば、これほど非合理な世界もないだろう。

うかつなことに、そう言われてから気がついた自分だったが、お二人は思想史の先生である。改めてそう言ったのだが、この品質を追求し、確実に成果を上げてきた社内講師の方には聞いてもらえなかった。残念であるよりも、あまりにN先生のお話に当てはまるところがあったのでおかしかった。

それは、「特に日本の合理主義が、実は権威主義にもとづいている場合が少なくない」、という指摘だった。

合理主義は、とても現実的であろうとするが、N先生は、「合理主義者というと、計算ずくの人という事もある」と指摘している。

これは怖いことだ。会社組織で、自分の権威を守り、貫くために合理的思考を武器に責め立てられたら、結論と方法にある程度合意している間はいいが、ある時、自分とは考えていることが基本的に違うのではないかと思った部下は、冷たく切り捨てられてしまうだろう。

駅でつぶやかざるを得ないほどに痛めつけられてしまった人は、そのひとりで、そんな人はどこの駅にもいるのが今の時代なのかもしれない。
本当は合理的思考が好きな自分としては、これは大変なことである。合理的思考のトレーニングも、これからは大きな変革をしないといけない。そう思ったところ、以下のような一文が目にとまった。

「合理主義とは、感情的情緒的要素を全然無視して理知的要素のみにたよって判断を下すことではなくて、むしろその反対であらねばならぬ。」

先生は、感情的要素という言葉を揺れ動く心の感情ということではなく、人間の基本的な思いということで使っている。価値を基礎に置くこと、これにはやく気がついて良かった。

わかりやすく、気づきと改善のヒントがしっかりと用意されたコースに仕上げなくてはならない。

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合理的思考

“合理的”をキーワードにした問題解決スキルを見ていると、きれいではあるし、基礎の部分で必須だとは思うのだが、どうもそれだけではないなという気持ちが以前からしていた。それで、合理的思考を捨てることなく、価値を基礎としたなどと言っているのだが、自分でもその整理がまだ足りないと思い続けてきた。

このお正月、ラジオの特別番組からO先生の声が聞こえてきた。その話をおもしろいなと聞いているうちに、そう言えば、先生の本は一度も目を通したことがなかったことを思い出し、図書館から借りて、読み進めていた。すると、「合理的な思考を進めるほど、本質が危うくなる」と書かれていたのに心が止まり、これかなという感じがした。

O先生は、神学者であり、哲学にも通じておられる方だが、私がいる世界は、しょせんは粗雑なビジネスの場であり、歴史の中の先哲の大学者の哲学的見地から整理してもらうほどのことはない。自己顕示欲と欲望が幅をきかしているが、合理的という言葉への尊敬も払われている。そして、欲望を隠して、合理的思考を振り回している人もたくさんいるのだ。

たとえば...というと悪口になるのでやめるが、こんな人の下で懸命に働き、自分を捧げるほどに仕事をする真摯な若い人に接すると、合理的思考を強調することにためらいもかんじる。
それは、突然の思いもよらない事件となって現れる。若い人は、裏切られたと感じるか、何が起きたかも、しばらくはわからない感じになってしまう。大げさなようだが、駅などで、人目のはばからずつぶやく人などを目にすると、医療の助けが必要なほどになってしまった人が、あちこちにいて、合理的思考による結論が振り回されていたのではないかと想像できるのだ。

O先生の本を返却に行くと、偶然なことに仏教学のN先生が合理性を論じておられる本が目に入った。
これは楽しみだ。
神学のO先生も仏教学のN先生も学者としては、洋の東西を自由に行き来して思考されてきた方々だ。

宗教の方々には、すばらしい方がたくさんおられることは知っているが、遠くからそれとなく挨拶をする程度で中に入ることは遠慮させてもらっていたが、今回は、自分の整理の助けに来てくれたのではと思うほどである。
お二人とも他界されてしまったが、合理性について対談をしたら、どのようなお話になっただろうか。それを自分の中で夢想し、やがてプログラムに反映できたら...お二人に比べるほどの自分ではないことは重々承知しているが、楽しんでみたいと思っている。

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